こんにちは、6歳の女の子、3歳の男の子をもつアラフォーのおじさんです。
東京・中野の中華屋さんの前で立ちすくむ男性がいました。
藤井聡太プロが昼食に注文したメニューがニュース報道されるいっぽうで、将棋棋士・先崎学九段は、うつ病の症状により決断力が極端に低下し、昼飯に何を食べるかすら決められずにいたのです。
『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』(文藝春秋)は、プロ将棋棋士である先崎学九段の一年間におよぶうつ病闘病録です。
軽妙に語られる地獄の日々
いったいに、本書の内容のようなことは、はじまりの日を具体的に記すことは難しいのだろうが、私ははっきりとその日を書くことができる。それがはじまったのは、六月二十三日のことだった。
なぜ、私のようなずぼらで日記などつけたことのないような人間が、こうしてピンポイントに日付を書けるかというと、その前日が私の四十七回目の誕生日だったからである。
「いったいに」
このちょっと古めかしい言い回しでこころをわしづかみにされてしまった。
出だしに古風な表現が登場したと思いきや、そこから飄々と語られる内容は読者のメンタルも下へ下へと引きずり込む。
闘病記というものはえてして壮絶なものであり、本書もその例にもれない。
闘病生活はときにはユーモアも交えて軽妙な語り口で語られるが、その実情は地獄でそのものである。
臨場感がありすぎる
うつ病を描く他のエッセイ同様、本書もメンタルが弱っているときにはあまりおすすめできない。
回復の記録であり基本的には「よくなっていく」のだが、それにしても前半から中盤にかけての描写はなかなかにしんどい。
これまでに雑誌の連載などを多数こなしてきた著者の面目躍如といった趣きで、うつ病との戦いがありありと描かれる。
実は本書は著者のうつ病が治ってから書かれたのではない。
この本は、うつ病回復期末期(と心から信じたい)の患者が、リハビリも兼ねて書いたという世にも珍しい本なのである。
そう。
回復へ向け四苦八苦しているその最中に書かれた本なのだ。どうりで臨場感もハンパではないわけだ。
重くのしかかる苦しみのいっぽう、著者の回復、努力、仲間の存在など、一歩いっぽの小さなよろこびに心をゆさぶられ、なんども涙が出た。
うつ病はこころの病でなく脳の病気
ひと昔まえには「こころの風邪」などと言われ、「気の持ちよう」とまでとらえられていたうつ病。
しかし近年は脳内の神経伝達物質の働きが悪くなるといった原因が明らかになり「こころ」の問題(気の持ちよう)ではなく身体の物理的なメカニズムの不調としての認識が高まっている。
本書のことばを借りるならうつ病は「脳の病気」だ。
精神科医である著者の兄が九段にかけたことばを引用する。
「うつ病は必ず治る病気なんだ。必ず治る。人間は不思議なことに誰でもうつ病になるけど、不思議なことにそれを治す自然治癒力を誰でも持っている。(後略)」
精神科医であり、当事者の兄でもある彼のことばは重く、説得力がある。
そして弟である著者もまたそのことばに応えるように、ゆっくりゆっくりと回復の道を歩んでいく。
棋士という職業柄、著者は脳の動きには人一倍敏感であり、だからこそ、うつ病というのは本当に脳の病気、脳の機能の不調なんだというのがよく理解できた。
「そうは言ってもやっぱり気の持ちよう、意志の弱さ(本人の怠慢)だって関係あるでしょ?」
と思うあなた。
ぜひ本書を手にとって、うつのほんの一部でも味わい、知ってほしい。
おわりに
うつ病回復の真っ最中に書かれたという、めちゃくちゃ貴重な記録だが、これがうつ病の一般的な事例かというとなかなかそうは言えないだろう。
なにしろ、著者は日本に200人もいないプロ将棋棋士のひとりである。
本書をとおして感じるのは先崎九段の人徳、人望だ。
妻をはじめ、多くの仲間に愛されているし、明らかにそれが回復への好材料になっている。
著者のような仲間の支援を受けづらい、孤独な凡人はどうしたらいいんだろうとちょっと考えてしまった。
しかしわたしは九段の兄のことばを信じる。
うつ病は必ず治るのだ。